2006年11月25日

Silver medal won or gold medal lost?

Silver medal won or gold medal lost?

WPAの協力のもと、マッチルームスポーツによって、ビリヤードの母国ともいうべきフィリピンで初めてナインボール世界選手権が開催されました。
特に、南シナ海や太平洋に浮かぶ島々から大勢のトッププレイヤーが訪れるようになって以来、フィリピンの首都、マニラはプレイヤーの集会場としての役割を果たしてきました。
大会はフィリピン国際コンベンションセンターで行われ、最初のステージ(ステージ2)は4人のプレイヤーによる交互ブレイク、8先のラウンドロビンで行われました。
上位二人が、最終トーナメント(ステージ3)に進みます。

シード権を与えられた私の組には、予選(ステージ1)を勝ちぬいた14名の内の一人が入りました。
しかし、ビリヤードという競技において、こういったことは特にアドバンテージにはなりません。
本選(ステージ2)へ出場権を奪うために、台湾、フィリピン、ヨーロッパやアメリカの沢山のトッププレイヤー達が予選(ステージ1)に挑戦しているからです。
今年は、本選(ステージ2)に参加した選手のうち、21人がフィリピン出身プレイヤー、16人が台湾出身プレイヤーでした。
彼らだけで全参加者の29パーセントをも占めるのです。

さて、グループ7での私の最初の対戦相手は、レオナルド・アンダム(フィリピン)でした。
アンダムのミスの後、私はいいスタートダッシュを切り、一気に3−0としました。
5−2となり、5−3となった時、私は難しいセフティ配置から、運良く空クッションからショットを決めて相手のわずかな望みを断ち切ると、そのまま難なく8−4で勝利しました。

翌日の対戦相手は、チャン・ジュン・リン(台湾)でした。
序盤、常に2、3ラック差をつけられ、追いつくのに必死でした。
4−7とリーチを掛けられた状態から、自分のブレイクのゲームをモノにして5−7と差を詰めました。
(次のゲームは相手ブレイクなので)相手のミスを願うしかなかったのですが、願いがかないました。
相手は6番から7番へのポジションする際に、スクラッチさせてしまい、私は残りを取りきることができました。
次の私のブレークは、エース。
一気に7−7に追いつきました。
次のラックで、相手はブレイクスクラッチを犯し、私が残り球を取りきって8−7で勝利しました。
私はこの時点で2位以上が確定し、ステージ3への切符を手にすることができました。

一日のオフを挟んで、私の3つめの試合の対戦相手は、スウェーデンのシニアヨーロッパチャンピオンの、トニー・フランソンでした。
この試合は、ステージ3で有利な枠に入るために重要な試合でした。
調子も良く、8−1で勝利して、ステージ2を64人中11位の成績で突破しました。


大会5日目、64人の決勝トーナメント(ステージ3)が始まりました。
ステージ2の成績によって、1位は64位と、2位は63位と、3位は62位と対戦します。
11位の私は、54位のオランダのヒューディーという選手と対戦しました。
ここからは、10先になりますが、交互ブレイクは変わりません。
私は手堅くプレーし、ミスを犯しませんでした。
これが功を奏して、10−3で勝利しました。

ベスト32の試合の対戦相手は、優勝候補の一人でもある、台湾の楊清順でした。
この試合はたいへん厳しく、最後まで気が抜けない試合でした。
5−5まで、互いに自分のブレイクゲームをキープする展開が続きました。
そしてなんとか、相手ブレイクのゲームを奪い、最後までこの僅かなリードを守って、10−8で勝利しました。

ベスト16の試合は、ロシアの強豪、コンスタンティン・ステファノフでした。
彼はオリバー・オートマン(ドイツ)を10−6、そして彼のチームメイト、マクロ・チューディー(スイス)を10−7で下してます。
彼は立ちあがり調子よく、私の最初のミスにつけこみ、4−2とリードしました。
しかし彼がミスし始めると、私は容赦無くポイントを奪い、2−4から、そのまま11−4で勝利しました。
そして、私のキャリアで6回目となる世界選手権準々決勝進出を決めました。
そして、この時点で私は勝ち残っているアジア出身でないただ一人のプレイヤーになっていました。

準々決勝の対戦相手は、リュウ・チェン・チャン(台湾)でした。
私はこの試合で初めて1番テーブル(つまりセンターコート)でプレイしました。
完璧なスタートを切って、早々と6−0とリードを奪いました。
終盤、私の2つのミスから、彼は6−4と追いついてきました。
しかし私は落ち着きを取り戻し、再度、試合を掌握することができました。
その結果、8−4と差を広げ、最終的には11−8で勝利して、4回目となる世界選手権準決勝進出を決めました。

準決勝の対戦相手はまた台湾選手、フー・チェイ・ウェイでした。
2番テーブルで行われたこの試合は、ビリヤードが与えうる全てのスリルが詰まった試合になりました。
いくつものセフティショット、いくつもの空クッション、そしていくつかのブレイクエース、・・・ドラマが最後まで続きました。
9−6とリードして、すでに勝った気分になりかかりましたが、対戦相手がすばらしいファイトを見せて、9−9と追いつかれました。
そして互いにブレイクゲームを譲らず、10−10になり、次のブレイクは私でした。
しかしブレイク後の配置は非常に難しく、トラブルと、取り出しのショットをなんとかしなくてはいけませんでした。
取りだしのショットを成功させて、4を入れたときに、5と6に完璧な角度になるようなポジショニングに成功しました。
しかし次のショットで、手玉と的球の接触が悪く、ポケットできませんでした。
そしてここから20分に及ぶセフティバトルが始まりました。
そしてやっと5番がオープンになった時、 攻めを選択して5番をポケットし、幸い6番にもうまく出ました。
残り3球をポケットし、3回目となる世界選手権決勝進出を決めました。


決勝:
私は、5年前に負けた世界選手権決勝の時と違い、優勝する強い意志がありました。
しかし、運が悪いことに、決勝の日、喉の痛みと共に目が醒めました、そして悪運に翻弄されたのです。
体調が悪く、なんとか決勝までに体調を戻そうとしました。
昼は横になり、痛みを和らげるためにビタミンCとアスピリンを摂取しました。


1000人のサポーターに支えられた地元のヒーロー、レナート・アルカノ(フィリピン)との決勝が始まりました。
序盤、私は2回の判断ミスを犯しました。
私は気分が良くなく、この決勝には守備的な戦略で望むと決めていました。
そしてこれが大きな仇となりました。
フィリピン人に、今自信があまりない状態だ、と見せてしまいました。
アルカノはソフトブレイクで、常に1ボールの位置をコントロールしてました。
一方私は、ハードにブレイクして、的球はポケットするのですが、取りきることができませんでした。
もし序盤に何回か好機があったなら、私はそのようにはプレイしませんでした。
3−9になり、私にブレイクエースがでましたが、私が望みを繋ごうとするといつも、しっかりやり返してきました。
どうしてもリードを埋める事ができず、ついに私は冷静かつ賢明なアルカノに11−6で敗北しました。
1996年に2度目の世界タイトルを獲って以来のビッグチャンスでしたが、2つの悪い判断のために、優勝は彼のものになってしまいました。

決勝の後、私は極限まで落ち込み、逃げ出したくなりました。
決勝で大会中、最も良くないパフォーマンスだったことを恥じたわけで無く、自分の負け方を恥じたからです。
決勝から、数日経った今では銀メダルを獲得できたことを大変喜んでいます。
でも、決勝の直後は、銀メダルを取ったこと、つまり金メダルを逃したことを喜べませんでした。

家族、友達、そして準優勝を祝ってくれた世界中のファンに感謝します。
多くのメール、SMS、いろんなフォーラムのコメントのおかげで、私は決勝での不甲斐なさを胸に抑えることができました。
この「ありがとう」をこれからの活躍で返していきたいと思っています。



ラルフ「The Kaiser」スーケー


posted by mathilda at 09:57| 新潟 ☀| ニュース&その他の試合 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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